ラブライブのライブについて考えると胃が痛いという話。(追記あり)(さらに追記)
これは私信です。酔ってます。うだうだとした自分語りです、あと、ラブライブが純粋に好きな方を結果的にdisってしまっているかもしれないので、注意してください。ここ数か月で関わり合いを持ったすてきなラブライブファンのみなさんとこれで縁が切れてしまったりしたら悲しくて悲しいです。
さて、ラブライブのライブが来年の冬ありますね。5thです。ぼくは、控えめに1枚買って外れて、あとは友人との話し合いで行けるかどうか、友人たちもぼくには行ってほしいと言ってくれているので、もしかしたら行けるのかもしれません。
ただですね、ラブライブのライブに関しては本当に、なんというか、考える度に胃が痛くなるような思いがありまして、これは単純にぼく個人の問題なのですけれども、このもやもやを吐き出さないと物理的に吐いてしまいそうな思いがありまして、ここにぶちまけたいと思います。
あのですね、ぼく、μ'sが好きなんですよ。すっごく好きなんです。6本のPVやアニメ内のPVを見ていて、いつも、ああ、なんてすてきなものが、なんてすてきなものがあるんだろうなあって思うんです。
ぼくはたぶん、アイドルというものが好きなんですけれども、ハロプロやAKBにはハマれなかった。唯一、広末涼子という例外はいたんですけれども、それでもなんとなく無理だったんですね。実際生身の10代とかもいるような若い女の子に、自分の思いやら何やらを仮託して、声を上げることが暴力的に思えて仕方がなかった。いや、もちろんそれはお金を払うビジネスなんですけれども、それでもなんだか嫌だったんですね。
ラブライブを最初1話だけ見たんですけど、まあ、アニメとして合わない。どうにも演出が過剰で、あまりにも脚本が透けて見えるようできつかった。一人の、それ相応の人生を歩んできた人間にはどうにも見えなかった。これは今も変わっていない感想なんですけれども、ただ、それはそうとしても、『ススメ→トゥモロウ』がよかった。OPが、『僕らは今のなかで』がよかった。この二つの曲とPV(?)だけは心に残って仕方がなかったんですね。
より具体的に言えば、『ススメ→トゥモロウ』の「だって変わんない世界じゃない」という歌詞を聴いたときに、「ああ、世界って変えられるよな」って思ってしまったんですよ。そんなことまったく普段思わないのに。穂乃果さんの、あのどうしようもない輝きに、圧倒的な説得力を感じた。ぼくにとってやっぱりアイドルって、そういう、歌詞をただ文字で読んだだけじゃあ心まで届かないようなメッセージを、その質量のあるパフォーマンスで届けてくれる存在で。あの穂乃果さん、まあもちろん海未ちゃんやことりちゃんもなんですけれども、彼女はそうだったんですね。
そのあとは、一応10話くらいまで見たけれども9話が圧倒的にだめで(オタクの前で歌ってる9人を想像するとどうにも気持ち悪く感じて未だにアレルギーです)、『ススメ→トゥモロウ』と『僕らは今のなかで』をひたすらyoutubeで見るっていう生活を続けて、ある日ベストを手に入れて、今度はPVを何度も見てました。そんな中ある日、ラブライブ二次創作にハマって百合厨になったりもして。
けっきょく、ぼくはμ'sを「ふつうのアイドル」として見ていたんですよ。先述のアニメラブライブの評価の話ともつながりますけれども、あの「ワザとらしさ」あるいは「ミュージカル的な演出」を根拠に、ぼくはアニメラブライブを「μ's結成秘話的な再現ドキュメンタリードラマ」として解釈していたりします。これは別に主観的な納得の話ですのであれですが。
だからですね、ライブに行くのきついんですよ。だって、SSAで歌って踊るのはμ'sじゃないんですもん。たしかに、声は同じかもしれませんが、ちがうんですよ。穂乃果さんじゃなくて新田さんなんですよ。新田さんはぼくはとてもすばらしい声優さんだと思っていますが、でも、穂乃果さんじゃないんですよ。なんでそれを見に行かなくちゃいけないのか。なんで、μ'sが存在しないことの証明を見に行かなければいかないのか。
ラブライブというコンテンツは、パラレル的だということがよく言われます。設定は一貫してないし、それぞれの媒体にそれぞれのキャラがいる。ぼくはそれを、「オリジナルのμ's」が存在して、それぞれはそのオリジナルのμ'sが出演しているもの、作っているものだと(=そういう設定であると)考えています。アニメは先に言ったように本人出演のドキュメンタリードラマですし、SIDは彼女らが実際に書いた日記、G'sの記事は彼女らが取材を受けた結果であり、PVは彼女らがリリースしたものというわけです。
そう考えていったときに、どう考えても、無理なんですよ。ライブだけは。生身の人間が出ている以上、そういう理屈はこねられないんですよ。彼女らは、その意味でμ'sではない、何か他のユニットでしかないんです。少なくとも、ぼくはぼくを納得させることができない。彼女らが「μ'sとして」μ'sの曲を歌ってる以上、そのこと自体がμ'sの存在を否定する。ぼくはそれに耐えられない。
さらに言えばですね、これは、本当に情けないことなんですが、「声優さんたちはμ'sじゃないから楽しめない」ということが、ライブにネガティブな感情を抱いている理由じゃないのです。むしろ、「μ'sじゃないけど絶対に楽しめる」だろうことこそがぼくの胃を痛くするのです。本当に、恥ずかしい。
というのも、ぼくはサッカーが好きで地元のアルビレックス新潟を、加えて最近プロ野球の広島東洋カープを応援しているのですけれども、ああいうスタンドの一体感、みたいなものが、どれだけ人間を楽しませるかということをぼくは知っているし、また、そういうものを大好物な自分も知っているわけです。ぼくはライブというものにおそらく2回しか行ったことはないですが、おそらくライブはもっと楽しいだろうことを確信しています。
実際、行きたいんです。5th、死ぬほど行きたいです。先のような経緯から、2期1話で『ススメ→トゥモロウ』を8人が歌いだしたところでぼくはみっともなく泣きましたし、2期12話の『僕らは今のなかで』でも、予想していたにも関わらず号泣しました。あとは、『どんなときもずっと』のサビでも静かに泣きました。『LONELIEST BABY』を1期12話13話を見た後に聞いたときは、「ああこれは穂乃果さんへのラブソングなんだ」と一瞬で気づいて、さめざめと泣きました。
つまり、行ったら楽しむんですよ。確実に、心動かされるんですよ。感動するんです。きっと体が震えてなすすべもなく泣くんですよ。でもどうですか。それで泣いてどうするんですか。歌ってるのはμ'sじゃないのに。俺が好きだった、好きなはずだったμ'sじゃないのに。俺はμ'sが好きだったわけじゃなくて、大きな規模の会場で、同じものが好きな人とペンライトを一緒に振ればそうじゃない人たちの歌でも泣いてしまうのか。泣いてしまうとしたら、それは何なんだ、何のための涙なんだ。俺は何に感動をしているんだ。俺は、俺は別に、μ'sの歌に感動していたわけじゃなかったのか。
俺はμ'sが好きだったはずなんだ。そう、確信を持って言えるはずなんだ。でも、でも、来年の春、ぼくがどうなっているのかは、なんともわかりません。そういう話でした。つらい。
【追記】
そのあとさらにフォロワさんたちと話しながらうだうだつぶやいたので一応置いておきます。本文に書き忘れた補足ということで。
同一視が云々というか、本来μ'sに捧げるはずのなにがしかを、声優さんたちに捧げてしまう(そこに行って熱気に当たって歌を聴いたら)だろうみたいなことで、だとするとそのμ'sへの俺の思いって何なんだろうみたいな思いがあるんですよ。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 7
でも、おそらく、μ'sとして愛してきたからこそそのコンテクストで湧き上がってくる感情はあるはずで、それが湧きあがっていいのかみたいなあれがあるんですよね。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 7
まあ、けっきょくこういうことなんですよ。百パー無理ですけどね。
だからさあ、ぼくが何を求めているかというと、μ'sがライブしたという体でアニメーションを作ってそれをライブビューイングしてくれ。頼む。ゼノグラシアじゃないほうのアニマスの最終話見る限りできるはずだ。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 7
【追記2】
ライブイリュージョン!そういうのもあるのか! たしかにこれはすごくよいかもしれないなあ。
【追記3】
もう見てる人もいないと思うんですけど、一応置いておきます。
ラブライブに関しては、俺はあれは本文には書かなかったけど、明確にビジネスとして設計されてると思ってて、アニメラブライブは確実に声優ライブに視聴者を誘導する機能を持ってるわけですよ。あれだけ外の視聴者を意識して、メタ的に作るわけですから。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
で、だとすると、視聴者は少なくとも作り手からは、声優ライブを「μ'sのライブとして」見に行くことを期待されている。おそらくこれは間違いない。で、俺はこれにアレルギーが出てるわけで、まあ、「嫌なら見るな」って話なんですよね。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
陽太郎さんにそういう受容をしたいならラブライブを選んじゃいけないって言われたけれども、本当それはまったくその通りだと思うし、俺が悪いとしか言いようがない。だけど、俺だって好きになりたくてなったわけじゃないんだよなあ。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
でもねえ、「選んだ俺が悪い」ということをまったく認めてなお、やっぱりラブライブは筋が悪いというか、そういうことを思うんだよね。6枚のシングルのPVといい、アニメ内のPVといい、あれだけのことをしてくるわけじゃないですか。あれだけ、あのμ'sを魅力的に描くわけじゃないですか。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
その中で、視聴者が最後に誘導されるのが声優ライブっていうのは、もちろん声優ライブ自体がとてもとてもすばらしいものであることはまったく知っていますがそういう話ではなく、ちょっとなんかちがうんじゃないかなあみたいな思いがある。というか、どう回路を結びつければいいのかがわからないよね。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
やっぱり、いきなり断絶したものが現れたような混乱があるんですよね。で、周りのみんなはわりとすんなりと受け取っている。なんでなんだろう、俺はそんなにすんなりできないよ、みたいなことがある。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
まあ、ぼくもそうやって今まで声優ライブとかそういう存在は意味がわからないって無視してきたんですけど、ラブライブの場合はラブライブを本気で余すところなく楽しもうと思ったら声優ライブに行くしかないんですよ。構造的に、ライブまでセットで作られてる。だからつらいわけです。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
まあ、だからまあ、「嫌ならライブを見るな」という言葉と同時に、作り手からは「コンテンツを楽しみたいならライブを見ろ」というメッセージが飛んできてるわけです。二律背反ですよ。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
(※断っておきますが、それでも「行く気はない。魅力を感じない」とつっぱねることができないぼくの弱さの問題だということは間違いないです。)
『ラブライブ』は『glee』に間違いなく影響は受けてると思うのだけど、『glee』が実写作品であるが故にドラマからキャストによるライブへ比較的スムーズにいけるのに対して、『ラブライブ』はアニメから中の人である声優ライブへの移行だから違和感ぬぐえないひとでてくるんだろうなあ
— wondersmith@関西 (@wondersmith) 2014, 9月 8
ああ、そうでしょうね。本来は実写→ライブでやったほうが極めて筋がいいと思います。
— かしゅーる (@_kashur) 2014, 9月 8
まあ、ぼくはりんまきとほのまきとほのにこを読めればいいというラブライブ!(散々「!」付け忘れてごめんなさい)オタとして生きていこうと思います。