なぜ俺は観鈴ちんそのものと向き合うことができないのか。

コンシューマ版のAIRをやった。納得できない。俺は観鈴ちんという女の子の在り方が、そのものが好きだった。彼女のありのままの人生が好きなはずだった。「だった」というのは、そうであることは不可能だからである。
神尾観鈴という女の子の在り方が、尊いと思った。すてきだと思った。気高いと思った。彼女が、物語の冒頭、堤防に立ち、ぼくらに語りかけるとき、その彼女の地面に着いた足は震えていただろうか、あるいは、彼女の心の水面は、不安なさざ波が立っていただろうか。彼女は、人とともに生きることが禁じられていた。しかし、彼女はそれでもなお、ぼくらの前に現れたときのようにあろうとする。そうするときの彼女は精一杯である、一生懸命である。しかし、彼女自身はそのことについて何か思うこともない。むしろ、彼女が気にするのは、相手と共にいようとする「私」が、目の前の相手に対して、迷惑な存在でないか、これである。そう考える彼女がすてきでなくて、気高くなくて、尊くなくて何なのであろうか。というのも、彼女が人とともに生きられないのは、彼女の意思に由来するものではないのである。彼女に世界は味方をしない。しかし、それでも彼女が世界に悪態をつくことはない。それが彼女の矜持であると同時に、まさに彼女の魂のすぐれた点でもあるのだ。
人が人と共にいるときの作法を教わるのが、両親をはじめとする家族によるとするならば、観鈴ちんはそのような経験を与えられなかった子である。そのような人間が、よくてもどうなってしまうのか、ということを確認するならば竹宮ゆゆこの『とらドラ!』を読めばよくわかるのだが(その逢坂大河も、しかし、クリスマスにおいて誰に教えられたわけでもなく、人に「贈ろう」とするのだからやはり、彼女も尊く、そして痛々しいと言わざるを得ない)、観鈴ちんがしかし、常に原因を自分に求めようとすること(=その結果がゲーム内での振る舞いであること)に、ぼくは涙を禁じ得ない。
このような彼女の在り様を、ぼくらはこのゲームを始めてすぐに、認識する。彼女の、極めて立派な存在の仕方はすぐに我々の前に夏影とともに表される。ぼくらの前に現れる立ち絵の彼女は尋常ではない。彼女は、何か、痛々しい存在として我々に映る。しかし、その痛々しさそれ自体が彼女の尊さであることに気づくのにそれほど時間はかからないはずだ(少なくとも、AIR編にまで行けばすべての人がわかる)。
AIRというゲームが、「家族」という存在の重要性、「家族」における安らぎ、幸福の至上性、すなわち、愛する人に囲まれたありふれた日常こそが幸福であることを説いていることは、ぼくのようなボンクラにも理解できる(ライターの前作Kanonを参照するとその確信はなお強くなる)。しかし、注目しなければならない大切なことは、ぼくらの前に現れたその観鈴ちんが、まさに、物語が始まると同時に現れる観鈴ちんが、そのようなメッセージ、この作品が「真理」であると伝えようとする主張を、きちんと理解し、そして、それに向かって努力しようとしていることなのである。
観鈴ちんがそうした物語の主題を最初期において理解し、体現しているのであれば、観鈴ちんがそのような物語の主軸に据えられているのはなぜだろうか。それは彼女の前世だかなんだか(翼人?)の物語による。そもそも彼女が人と共に生きられないことを宿命づけているのもそうした設定である。
観鈴ちんは、そうした悠久の過去からの流れを、切断する。それは、たしかに人々に何かしら感動を呼び起こすものなのかもしれない。しかし、そのような課題は彼女に由来するものではない。彼女自身の人生にとっての何かではない。彼女は、彼女自身の人生において、この作品の主題に一致するような、気高い生をすでに生きている。しかし、それは彼女に付随する、彼女の意思以外の何か(翼人とかいう外在的な歴史みたいなもの)によって実現不可能である。
ぼくが、本当に口惜しく思うのは、観鈴ちんが、観鈴ちん自身の人生以上のものを背負わされているからである。翼人の記憶は、彼女の意思によってどうにもならない。彼女を苦しめる痛みは、彼女の身体にないはずの部分から発せられるのである。それは、制御不可能である。
蛇足として述べれば、そのような翼人の因縁は、主人公との関係が唯一無二であり、重要なものであるとの主張の一助とはなるのだが、そのことが何かしらよいものだとも私には思えない。人と人の関係に価値を与えるのは、人が人を自分の意思において思う心に他ならず、彼の意思と関係ないところですでに「決定されている」何かが何らかの価値を持つようには思えない。そのようなとき、人と人の関係における両当事者の中身はいわば「空」であり、何でも入ることができる。なぜなら、その容器、属性に付着するものこそが大事なのであるから、その内部に何が要るかと言うことは関係がない。実質的な内部について無頓着であるときに、その関係に価値があるとは思えない。ある人間を人間たらしめるのは、そうした「形式」ではなく、「実質」的な何かであると私は確信しているからである。
彼女が死なねばならぬのは、彼女が自らの生において何かしらそれに値することをしたからではない。それは、彼女の意思とはまったく別のところで「すでに決定されている」設定があるからである。なるほど、すべての創作物において、常にキャラクターは設定の産物である。先に述べた逢坂大河は非常な過酷な人生に生み落とされ、その過酷さは彼女の意思に由来するものではない。しかし、彼女には、彼女自身によって過酷さに打ち勝つ「余地」が留保されているのである。だがしかし、観鈴ちんについてそのようなものがないのは先に述べた通りである。彼女が痛みを感じるのは、「ないはずの部分」においてであるのだから。
論旨がとっ散らかってしまったが、私の(作者への)憤りはこの一点に尽きる。すなわち、「なぜ、神尾観鈴という少女は、彼女自身に由来するもの以外のものを背負って生きなければならなかったのか」。よりわかりやすい言葉に置き換えれば、「なぜ神尾観鈴は、彼女自身の人生のみを生きることを許されなかったのか」。これである。『AIR』において、彼女は常に、作者による設定から自由な、「彼女自身」であることはできない。したがって、私は、観鈴ちんそのものと向き合うことはできない。本エントリのタイトルの意味は、そういうものである。


観鈴ちん自身が物語のアクターではなく、むしろ、主役は主人公と晴子であり、彼らが観鈴ちんを通して作品のメッセージを確認していく、そういう解釈が妥当である可能性はある。しかし、その場合、観鈴ちんの扱われ方はさらにひどいということに留意が必要である。というのも、この場合、観鈴ちんは、まさにただの手段的な価値しか認められない道具に成り果てることになりかねないのであるから(というのはさすがに言い過ぎだなあ…(追記))。