[天気の子]凪くんとアヤネちゃんが社会人になっても新宿あたりでお酒飲んでたらいいよね(という妄想)。

みなさん、『天気の子』が好きですか?ちなみにぼくは『天気の子』が好きです。何が好きって、やっぱり、「陽菜さんに帆高がいてよかった」ということに尽きます。自分を勘定に入れない女の子を空まで追いかけて行って手を差し伸べる男の子がいたことと、陽菜さんが、その男の子を見た瞬間に体が勝手に動いて、駆け出して手を伸ばしてしまえた、そういうことができたということを本当に祝福したい。歌舞伎町では帆高が無理やり手を取って走りますが、空の上では帆高は手を伸ばし、陽菜さんはそうするしかないというように思い跳んで手を掴むのです。行動が先、思考が後であるというのは、落ちながら今更にも「でも、私が戻ったら、また天気が!」と叫ぶことによって言明されている。とにかく、彼女が生きることを選べてよかったし、その時に手をつないで落ちてくれる男の子がいてよかった。「自分のために願って、陽菜」と言われて、笑顔でうなずくことができてよかった。『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』しか見ていなくて、新海さんのこと好きじゃなかったんですけど、最近『雲のむこう、約束の場所』と『星を追う子ども』を見まして、ああこの人は、(まあ秒速もそうなんですけど)どこまでも「生きよう」という話ばかり作っているんだなあと思えたのでわりと好きになった自分がいたりします。一応、ファーストインプレッションの感想置いときます。

kashur2.hatenadiary.org

 

というわけで本題ですが、好きなので、既になんか5回も見ちゃったんですけど、そのくらい見るとなんとなくいろんなところが見えてきてまた楽しくなってきます。先日人と居酒屋で酒飲みながら感想言ってて、なんとなく凪くんと、その元カノのアヤネちゃん、今カノのカナちゃんのことを妄想するのが楽しかったので、標題の話をします。ほとんど根拠のない妄想です。

 

凪くん、ありていに言えば大人じゃないですか。人間関係における能力がすごく高くて、気が利くし、度胸もある。それってもちろん、天性のものであって、元々そういう子だったというのはあると思います。人間一朝一夕でああはならないはずなので。ただ、たぶんですけど、あの大人さはきっと母親が死んで、ねーちゃんはバイトばっかりしている中で、俺は子どもだけど子どもなりにねーちゃんの役に立たなくちゃならねえ、みたいな思いがあるはずなんですよね。他の同級生が子どもをぬくぬくやれる中で、子どもじゃいられないんだけど子どもでしかいられない子特有の、達観みたいなものがきっとある。フットサルにしても恋愛にしても、たぶん、ねーちゃんに、「俺はちゃんと楽しくやってるぜ」という風に見せたい思いを持ちつつ、屈託を見せずに楽しんでる側面がきっとある。

今カノのカナちゃんってCVが花澤香菜なのもあってすごく花澤香菜力が高い女の子で、ゆるふわなパーマがかわいくって、おしとやかで、すごく女の子らしい女の子じゃないですか。基本的に女の子のほうが成熟が早い中で、ああいう子が憧れるのって大人びた子なんですよ。だから凪くんと付き合ってるんだと思うんですけど、たぶんそれは恋に恋している状態に近いというか、「大人っぽい」から凪くんが好きなんだと思うんですよね。大人っぽい男の子に、きちんと愛される私を作っている。かわいすぎる。もちろん凪くんのことは精一杯、全身全霊で好きだと思うんですよ。

でも、児童相談所で入れ替わりをやるのは元カノのアヤネちゃんじゃないですか。あれがねーすごくよくて。アヤネちゃんは受け身な女の子の力全開、というよりもどっちかというと、気が強くて、ガツガツモノを言って、というような子だと思うんですよね。「心臓がすごくドキドキしているの、凪くん触って確かめてみて」に対して、「あーらほんとだ」とか言ってカナちゃんの胸触ってしまうの、すごくかわいい。戦闘力高め。もちろんカナちゃんもそんな大胆なことを言っちゃうので戦闘力高い女の子なんですけど、ベクトルがちがうんですよ。

カナちゃんには入れ替わりを頼めないけど、アヤネだったら、という思いが凪くんにはあった。100%妄想ですけど、アヤネちゃんは、お母さんが亡くなる前の凪くんを見てたんじゃないかな、とか思っちゃうわけですよ。もちろん前から大人っぽくてカッコいい凪くんだったのだけれど、前はもっと心から笑っていたのにな、とか、私のことをきちんと見ていたのにな、とか、今はどこか遠くを見ているばっかりだ、とか思っていたりする。笑顔から真剣な、寂しそうな顔までの距離がすごく短くなってしまった気がする、とか、思っていて、でも、全然私には話してくれない。大丈夫?って聞いても、いつもの完璧にさわやかな笑顔で「大丈夫だよ、アヤネ、心配してくれてありがとう」とか返されてしまって、疎外感ばかり募ってしまう、みたいな苛立ちがあったし、それで、「私のほうを見てよ!」とか「私にもっと頼ってよ!」とか思って、ついつい踏み込んだり、挑発したりして、言いたくもない言葉をぶつけてしまって傷つけて、ということが一度あったりしたらいいなあとか思うんですよ。

だって、児相で入れ替わりですよ。カナちゃんは面会を終えて帰ればいいけど、アヤネちゃんは凪くんの代わりとして児相に残る。残るからにはいつかバレて大人たちに相対しなきゃいけないわけです。それに、小学生がウイッグってそんな簡単に買えるものじゃなくない、と思うし、自分が着てる服を男の子が着て、男の子が着てる服を自分が着るって、どれだけ気を許せたらそうなるの、って思うし。凪くんがそれを頼めるのがアヤネしかいなかったんだろうな、と思うと、じゃあこの二人の間にどんな気の置けない関係があるの、とか思ってしまう。

アヤネちゃんが、怒ってるのがいいですよね。怒ってるんだけどあんなヤバイことを頼まれるし、躊躇せずやってあげてる。前述のような妄想を踏まえると、あの時自分を頼ってくれなかった凪くんが、こんな風に、ヤバイことを私に頼んでくれた、やっと凪くんの人生を助けてあげられる、みたいな思いもあったんじゃないかなとか。もちろん序盤で凪くんとラブラブしているアヤネちゃんが描かれているわけなので、こんなの完全に妄想としか言いようがないんですけど、でもやっぱりあの二人にはけっこう深いところでのつながりがあって、凪くんの中でも、アヤネにだったら、みたいなことがあるんじゃないかと思えてならないんですよ。だからね、カナちゃんとは中学に上がるときくらいに別れて、カナちゃんも別の男の子と付き合って、お互いもう人生が交わらないとかそういうことおあると思うんですけど、アヤネちゃんとの関係はずっと続いたらいいな、とか思うんですよ。それこそ時々カフェとかに行って、「また新しい女?」とか毒づかれて、その、他のどの女の子ともできない気の置けない在り方に楽さを感じる凪くんとかいたらいいし、お酒飲めるようになったらたまにお酒とか飲んで、本音でズケズケ言い合えるようなかなり稀有な関係が続いてたりしたらいいなあとか思うんですよね。あとは、予約がなかなか取れない店を予約したのに彼女が体調不良とかで来れない時に、「キャンセル料もかかるし、アヤネ、せっかくだから行かない?」とか言われて埋め合わせ要員としてご飯食べにいったりとかもあって、それで、そうやって毒づきながらも、アヤネちゃんはずっとずっと凪くんのことが好きだったりしたらほんと最悪でいいですよね。こうやって隣にい続けたらまたいつか私の番が、とか思い続けながら、他の女のところに赴く凪くんの背中を見ていてほしいし、凪くんは心の底からアヤネのことを友人として好きで信頼していて頼りにしていて、あの児相でのことをずっと恩に着てたりしたら本当によい。

いやーひどい妄想ですね。解釈がガバガバなのは自覚しておりますので、みなさんも凪くんとアヤネちゃんのもっと説得力のある物語を紡いでくれるとうれしいです。凪くんにも幸せになってほしいので。

『天気の子』がすごくよかったのでとりあえず感想。

『天気の子』見てきました。結論から言うと本当によかった。途中から涙が止まらなくなってしまって、終わってしばらく呆然としていました。こういう、子どもと社会に関するアニメを見られるとは思ってなかった。15時から友達と酒を飲む予定なので、推敲もなしに書き殴る。もちろんネタバレありです。

あの廃ビル、陽菜さんが、戻ってくるじゃないですか。「気持ち悪い!」って切って捨てたあと。あそこでもうだめで。母親が死んでから、あの子のことをああいうふうに手を取ってくれた人って、いたのかなとか。あの子への、個人的personalな、手が差し伸べられたことってあったのかな、とかそういうことを考えてしまうんですよ。私的な、あるいは親密intimateな、そういった関係性というものが、あの田端の安アパートの姉弟で完結していたんだろうなと思うのは、有り合わせの材料でぱっと食事を作ったとき。そして、直前で緊張して「つまらないものですが!」と他人行儀にテンパる帆高に対して、きちんとオトナの定型文でおどけて返すとき。高須竜児の話をしなくても、その15歳の女の子がなぜそうあるようになったのかなんてわかることですけど、彼女はあの部屋を守るために、子どもなのにオトナでいようとしなければいけなかったし、でもなれるわけなんてないし。その悲哀があのとても小ぎれいな部屋に結実してる。芽を伸ばす豆苗やネギに結実してる。

陽菜さんがハンバーガーを贈って、それのお返しが鉛玉だったことの意味、とか。誰からも何も贈られずに育った少女が、「……誰かが見ているから、って、伝えたいのよ」(竹宮ゆゆことらドラ7!』pp.150)と孤児たちにプレゼントを贈りながらつぶやき傷を晒すわけですけど、雨の新宿でどうしようもなく一人だった少年を見ていた子は、ハンバーガーを贈る。人は贈り物を贈り合うことで人との関係を紡いでいくわけですが、あらゆる人々との関係から疎外された帆高に差し出されたあのハンバーガーはまさに人の基本的な関係の端緒としか言いようがない。そして、まさに同じく新宿で、現実に孤独で向かう少女を、鉛玉で救い出したことの意味、とか。チンピラは鉛玉で追い払えても、彼女の生活は現実はお金(「実弾」)でしか解決できない(ので、彼は起業をする)。ただ、子どもでも男の子は拳銃を扱えるし、女の子はもうセックスができるんだというあの救いのなさのことはやっぱり考える。

帆高が、まぎれもなく子どもであったこと。逆説的に、だからありえたあの3人の終わりが見えている逃避行。子どもだから、陽菜さんが大人に見える。大人に見えるということがどういうことかわからない程度には子どもだったし、須賀さんと夏美さんの関係もわからない。でもだからこそ陽菜さんといられたのだろうし、彼から見た陽菜さんは子どもでいられたということなのかもしれないし。そういうことを考える。

いやね、こんなこと語るのに、竹宮ゆゆことらドラ10!』を引くまでもないことなんですよ。引くまでもないことなんですけど、考える。子どもが、責任を果たそうとする大人から、どうしようもなく逃げることを。逃げた先で、そこで一晩だけありえたその空間、ラブホテルの最上階。須賀さんがくれた無責任な、そして理性的な5万円で泊まるあの一泊28000円の大人のための一室で、子どもが、翌朝には終わらざるを得ない(なにせお金は5万円しかないのだ)逃避行の末得たその瞬間の永遠を願うこと。

パトカーの中でわめく帆高を、「めんどくせえ」と切って捨てるあの若い刑事。あの人いいですよね。断絶を描いている。行政職としての職務(によって代表される社会)と、個人的な事情との断絶という、当たり前を描いている。保護者の不在ゆえに公的publicな文法のみに絡めとられるしかない子どもの、個人的personalな事情を受け止めてあげられるのは、やっぱり、個人的な関係を持っている大人でしかありえないんですよ。だから須賀さんは来たんですけど。そこで、須賀さんが、不合理にも、非理性的にも、したことがね、本当に、なんだろう、あそこで須賀さんが帆高のために、あるいは10何年前の自分の、あるいはそのときの自分のためかもしれませんが、体が動いた、動かさざるを得なかったということはやっぱり愛であって。愛の話としてこの映画の話をするなら、やっぱり須賀さんのことを考えてしまう。あの瞬間、まぎれもなく彼は娘を一度捨てたんですが、しかし、娘を愛するためにこそ、父親であればこそ、彼はああ動くしかなかった。娘の父親をやる資格のために、ああしたんだと思うんですよね。たぶんですけど。

これは書くべきか悩むんですけどね、やっぱり見て、その感想に影響を与えていると思うので書くことにします。朝、京都アニメーションのことを考えてて。俺は、作品を通して亡くなった方々と個人的な関係を、もちろん一方的ですけど、感じていたんですよ。だから、本当に、自分が知っている人が亡くなったような喪失感があるんですよ。みなさんもそうではないですか。うちの会社には忌服休暇があるんですけど、その対象は3親等までです。これが、公的に承認されている、喪失を感じてよいとされる関係性です。でも、そんなこととは関係なく、喪失はあるわけないじゃないですか。あの火災で大切な人たちが亡くなって、仕事なんてしてらんないじゃないですか。でも社会はそんなこと知ったこっちゃないわけですよ。同様に、帆高の事情も、陽菜の事情も凪の事情も、そして須賀さんの事情もそんなこと知ったこっちゃないんですよ。知ったこっちゃないので、警察は追いかけてくるんですけど、その事情をまさに犯罪、暴力を使って須賀さんが、凪が、一時的に押し通す、押し通したその瞬間に非常階段を駆け上る帆高を見てたら本当に涙が止まらなくなってしまって、行け!と思えたりしたんです。これは蛇足だし、大人になってもこんなで恥ずかしいんですけど、うそをつきたくないので書いておきます。

夏美さんと陽菜さんのキャラデザ、特に目がいいです。ツリ目、気の強さを表しつつ、そして時に子どもっぽく笑うのが似合うあの目。18歳ではないんだけど、かといって15歳と言われると胸が苦しい。年齢の話をすると、帆高16歳、そして偽った陽菜の年齢が18歳。逆なら結婚できる年齢だよな、とか。一足早く大人になるには婚姻しかない子どもたちなのに、その年齢には及ばないことの意味、とか。そして新宿には、15歳とわかっててスカウトするあの男に、娘がいることとか。

 あとねー、なんだろ。観鈴ちんのこととか考えちゃうよね。考えなくていいよね。

あっ、そうだ、凪くんを助けるアヤネちゃんとカナちゃん、泣きながら見てたスタッフロールで笑えてしまった。元カノのほうの子、かわいかったですね。本当に。まぎれもなく百合だった。あと、リクスーに着替えて、髪をまとめた夏美さんが、はい、好きです…。

はーーーーとりあえず今日友達とビール飲んで2回目見に行こう。とにかくいい映画でした。ひどく感動した。見てよかったです。

ラブライブ!って何だったんだろうね、とか。

タイトルに!つけたのでもういいでしょう。こっから先はラブライブで通します。ごめんなさい。

ラブライブ、好きになるのにはずいぶん時間がかかったのだけれど、まあ、今の気持ちとしては、ぼくはラブライブが好きだと、ある程度堂々と言えるようになったのかな、と思ったので、こんなエントリを書こうと思いました。堂々と、というか、開き直り、というか、ああ、そうだ、もう降参、認めざるを得ない、そういう表現こそが適切かもしれない。ああ、そうだよ俺はラブライブが好きだ。それはおそらく間違いがないんだ。

でも、しかし、たとえば屈託、そうしたものはやはりあるのだ。そうしたものは、紛れもなくぼくの一部であったし、それどころかぼくそのものであったような気さえしてくる。いくらもう好きだと言えるようになったからって、それをなかったことにはできないし、したくない。後期の谷川史子は若さゆえの過ちとでも言うべき何かを、取り返しがつかないものとして描きつつ、しかし同時に優しい目線で見つめていたりするけれど、そういうマンガが好きなぼくなのだから、昔の「ぼく」のことだって大切にしたいのだ。ごめん、これはあんまり関係がないかも。

何はともあれそういうことだから、ちょっとぼくにとってのラブライブがどういうものだったのか、という話をしたい。これはぼく自身への私信として書くけれども、ぼくと古くから親しくしてくれている人たちや、ラブライブを通じて仲良くなった人たちに読んでほしいな、と淡い気持ちを抱いてもいる。よろしくお願いします。

おそらく、ラブライブのどこがニガテだったのか、という話からしなければならないのだろう。自らの記憶の糸を辿っていくと、やはり、アニメ1期9話に行きついてしまう感がある。秋葉原、というのはオタクであるぼくもよく行くところなのだけれども、そこでライブをするということに、とてつもないアレルギーがあったことを覚えている。これはぼくの自己嫌悪に由来するものだけれども、「オタク」というものの前で歌って踊るμ’sというものを、ぼくはどうしても認めたくなかった。なんでそんなやつらの前で(ぼくらの前で)歌ってしまうのだと、そんなものに支持されることで、彼女らが「輝く」こと、そのことを直視できなかった。手塚治虫を読んで育ったというのに、ごみ溜めから白いゾウが生まれるとは思えないのだ。しかし、これはおそらくぼく特有のアレルギーにすぎない。

ただ、ここからラブライブという作品のある特徴を少し掬い取ることができるのかもしれない。つまり、秋葉原でのライブは何のためのものだったのか、という話であって、ひいてはμ’sとは何のためのものだったのか、という話に他ならない。というのも、廃校を阻止するためにμ’sがあるのであって、それは出発点においてどこまでも手段でしかなかったという事実が厳然とある。もちろん、そういった性質は物語が進むにつれて失われていくわけだけれども、ここで述べたいのはそうしたμ’sの手段性そのものではなく、そうした手段性は、ある特定のスクールアイドルとファンの関係性を前提にしている、ということである。何が言いたいかといえば、スクールアイドルとして成功することが廃校の阻止につながるということは、スクールアイドルというものが相当に多くの人間を動員することができるということを意味する。そして、そうである以上、スクールアイドルとファンの関係は、ある種合理的な性質を持つようになってしまうだろう。μ’sを応援するのは、彼女らのパフォーマンスがすばらしいものであって、支持するに値するからである。合理的な判断の結果として、ファンが存在する。こうした部分において、おそらく、「スクールアイドル」とプロの「アイドル」の間にさほど径庭はない。スクールアイドルの人気は、そのまま貨幣的な価値へと変換され得るように思われる。

なぜこんなことを延々と書くのかといえば、たとえばぼくは『がくえんゆーとぴあ まなびストレート』というアニメの終盤を理解できない人間だったりするからである。まなびたちがいっしょに同じことに取り組んでたくさんお話をして、仲間になる過程までは納得ができるのに(たとえば、みかんと芽生)、その後、まったく縁もゆかりもない学園の生徒たちが、まなびたちに協力し始めることに理解ができない。人間はそう簡単に動かないだろうと思うのである。もちろん、それ自体として圧倒的な魅力(それは、たとえば市場に溢れる娯楽に勝るか伍するクオリティのものである必要がある)をまなびたちが提示できるのなら別であるが。

テンニースをきちんと読んでいないので用いるのがちょっと怖いのだけれども、ぼくは、つまるところ、ラブライブにおけるスクールアイドルや終盤のまなびストレートにおける生徒会は、いわゆるゲマインシャフト的なものではあり得ないのではないのかと思っているのである。ゲマインシャフト的な関係の延長として描くにはやっぱり無理があると思うのだ。ゲゼルシャフト的な、すなわち、「利害に従って打算的に行為する」(山川倫理用語集より)人間が動員されなければそうはならないと考えるしかないのではないか。μ’sのランキング順位を押し上げるのは、まさにそうした人たちであり、それはまたまさにぼくらラブライブのファンであるのだということに疑いはない。あの世界の無名のファンたち(=「みんな」と言って差し支えないのだろうか)は、ぼくらに容れモノとして開かれているのである。

ラブライブの2期11話が、まさにその意味での「ぼくら」を置き去りにしてしまうものだったというのは言うまでもないだろうと思う。真姫ちゃんは泣きながら「μ’sは私たちだけのものにしたい!」「私が嫌なの!」と叫ぶわけだけれども、これはまさにその通りワガママ以外の何物でもない。そもそも、廃校を阻止するという目的によって結成され、多くの人びとの支持や応援をもらいながらラブライブに出場したμ’sは彼女らだけのものではあり得ないのである。すでに「みんな」のものであるのだから、「私たちだけのもの」にはできるはずもない。こうした無責任は許されるはずもなく、きちんと責任を取る必要が出てくる。だからこそ、映画ラブライブは必要だったし、その内容も真っ当なものであったのだ。ぼくは、映画ラブライブは素直で順当な評価を受けるべきであると考えている。ただし、それはぼくが好むところのものではなかった。

とどのつまり、ぼくが好きなのは2期11話なのだ。西木野真姫の「ワガママ」が愛おしくてたまらないし、またそうであるべきだと思うのだ。ぼくらは置き去りにされるべきだし、たくさんのファンがいなくたって、ラブライブに出なくたって、彼女らはあそこで別れを惜しんで子ども丸出しで泣きべそをかけたはずなのだ。アニメけいおんの2期20話で、彼女らを見守ってきた人たち、あるいは、彼女らが関わってきた人たちとのコミュニケーションとしてしか価値を持たないライブの後で、唯たちはどうしようもなく大泣きをするのである。

ぼくがラブライブを好きなのは、彼女らの過ごした時間が、そこで育んだ関係が尊いものだからだ。いろいろなものを抱えた彼女たちが、大切な友達に出会えて一歩を踏み出したり、その踏み出す一歩を大切な友達に見守られたりする。そういう、そういうかけがえのない関係がぼくは好きだし、彼女たちが過ごしてきた青春の時間がどうしようもなく輝いていることに打ちのめされるのだ。

彼女らに、μ’sがあって、そういう仲間がいて、本当によかったねと、そう言いたくってたまらないから、ぼくはもう「ラブライブを嫌い」とは言えない。ぼくはラブライブが好きだ。彼女たちの、これからの人生にどうか幸福がたくさん訪れますようにと、そう願わずにはいられない。あるいは、大人になった彼女たちが仕事から帰る電車の中で、ふとこうした青春の時間を思い出して、くすりとほほ笑むそんな瞬間が、あってくれればいいと、そう思うのである。


P.S.
最後のほうの話、具体的にどういうことが言いたいのかということを前書いたtogetterで補足しておきます。まきりんぱなについてです。

ライブ前後でまきりんぱなについて考えたこと。 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/777647

なぜ俺は観鈴ちんそのものと向き合うことができないのか。

コンシューマ版のAIRをやった。納得できない。俺は観鈴ちんという女の子の在り方が、そのものが好きだった。彼女のありのままの人生が好きなはずだった。「だった」というのは、そうであることは不可能だからである。
神尾観鈴という女の子の在り方が、尊いと思った。すてきだと思った。気高いと思った。彼女が、物語の冒頭、堤防に立ち、ぼくらに語りかけるとき、その彼女の地面に着いた足は震えていただろうか、あるいは、彼女の心の水面は、不安なさざ波が立っていただろうか。彼女は、人とともに生きることが禁じられていた。しかし、彼女はそれでもなお、ぼくらの前に現れたときのようにあろうとする。そうするときの彼女は精一杯である、一生懸命である。しかし、彼女自身はそのことについて何か思うこともない。むしろ、彼女が気にするのは、相手と共にいようとする「私」が、目の前の相手に対して、迷惑な存在でないか、これである。そう考える彼女がすてきでなくて、気高くなくて、尊くなくて何なのであろうか。というのも、彼女が人とともに生きられないのは、彼女の意思に由来するものではないのである。彼女に世界は味方をしない。しかし、それでも彼女が世界に悪態をつくことはない。それが彼女の矜持であると同時に、まさに彼女の魂のすぐれた点でもあるのだ。
人が人と共にいるときの作法を教わるのが、両親をはじめとする家族によるとするならば、観鈴ちんはそのような経験を与えられなかった子である。そのような人間が、よくてもどうなってしまうのか、ということを確認するならば竹宮ゆゆこの『とらドラ!』を読めばよくわかるのだが(その逢坂大河も、しかし、クリスマスにおいて誰に教えられたわけでもなく、人に「贈ろう」とするのだからやはり、彼女も尊く、そして痛々しいと言わざるを得ない)、観鈴ちんがしかし、常に原因を自分に求めようとすること(=その結果がゲーム内での振る舞いであること)に、ぼくは涙を禁じ得ない。
このような彼女の在り様を、ぼくらはこのゲームを始めてすぐに、認識する。彼女の、極めて立派な存在の仕方はすぐに我々の前に夏影とともに表される。ぼくらの前に現れる立ち絵の彼女は尋常ではない。彼女は、何か、痛々しい存在として我々に映る。しかし、その痛々しさそれ自体が彼女の尊さであることに気づくのにそれほど時間はかからないはずだ(少なくとも、AIR編にまで行けばすべての人がわかる)。
AIRというゲームが、「家族」という存在の重要性、「家族」における安らぎ、幸福の至上性、すなわち、愛する人に囲まれたありふれた日常こそが幸福であることを説いていることは、ぼくのようなボンクラにも理解できる(ライターの前作Kanonを参照するとその確信はなお強くなる)。しかし、注目しなければならない大切なことは、ぼくらの前に現れたその観鈴ちんが、まさに、物語が始まると同時に現れる観鈴ちんが、そのようなメッセージ、この作品が「真理」であると伝えようとする主張を、きちんと理解し、そして、それに向かって努力しようとしていることなのである。
観鈴ちんがそうした物語の主題を最初期において理解し、体現しているのであれば、観鈴ちんがそのような物語の主軸に据えられているのはなぜだろうか。それは彼女の前世だかなんだか(翼人?)の物語による。そもそも彼女が人と共に生きられないことを宿命づけているのもそうした設定である。
観鈴ちんは、そうした悠久の過去からの流れを、切断する。それは、たしかに人々に何かしら感動を呼び起こすものなのかもしれない。しかし、そのような課題は彼女に由来するものではない。彼女自身の人生にとっての何かではない。彼女は、彼女自身の人生において、この作品の主題に一致するような、気高い生をすでに生きている。しかし、それは彼女に付随する、彼女の意思以外の何か(翼人とかいう外在的な歴史みたいなもの)によって実現不可能である。
ぼくが、本当に口惜しく思うのは、観鈴ちんが、観鈴ちん自身の人生以上のものを背負わされているからである。翼人の記憶は、彼女の意思によってどうにもならない。彼女を苦しめる痛みは、彼女の身体にないはずの部分から発せられるのである。それは、制御不可能である。
蛇足として述べれば、そのような翼人の因縁は、主人公との関係が唯一無二であり、重要なものであるとの主張の一助とはなるのだが、そのことが何かしらよいものだとも私には思えない。人と人の関係に価値を与えるのは、人が人を自分の意思において思う心に他ならず、彼の意思と関係ないところですでに「決定されている」何かが何らかの価値を持つようには思えない。そのようなとき、人と人の関係における両当事者の中身はいわば「空」であり、何でも入ることができる。なぜなら、その容器、属性に付着するものこそが大事なのであるから、その内部に何が要るかと言うことは関係がない。実質的な内部について無頓着であるときに、その関係に価値があるとは思えない。ある人間を人間たらしめるのは、そうした「形式」ではなく、「実質」的な何かであると私は確信しているからである。
彼女が死なねばならぬのは、彼女が自らの生において何かしらそれに値することをしたからではない。それは、彼女の意思とはまったく別のところで「すでに決定されている」設定があるからである。なるほど、すべての創作物において、常にキャラクターは設定の産物である。先に述べた逢坂大河は非常な過酷な人生に生み落とされ、その過酷さは彼女の意思に由来するものではない。しかし、彼女には、彼女自身によって過酷さに打ち勝つ「余地」が留保されているのである。だがしかし、観鈴ちんについてそのようなものがないのは先に述べた通りである。彼女が痛みを感じるのは、「ないはずの部分」においてであるのだから。
論旨がとっ散らかってしまったが、私の(作者への)憤りはこの一点に尽きる。すなわち、「なぜ、神尾観鈴という少女は、彼女自身に由来するもの以外のものを背負って生きなければならなかったのか」。よりわかりやすい言葉に置き換えれば、「なぜ神尾観鈴は、彼女自身の人生のみを生きることを許されなかったのか」。これである。『AIR』において、彼女は常に、作者による設定から自由な、「彼女自身」であることはできない。したがって、私は、観鈴ちんそのものと向き合うことはできない。本エントリのタイトルの意味は、そういうものである。


観鈴ちん自身が物語のアクターではなく、むしろ、主役は主人公と晴子であり、彼らが観鈴ちんを通して作品のメッセージを確認していく、そういう解釈が妥当である可能性はある。しかし、その場合、観鈴ちんの扱われ方はさらにひどいということに留意が必要である。というのも、この場合、観鈴ちんは、まさにただの手段的な価値しか認められない道具に成り果てることになりかねないのであるから(というのはさすがに言い過ぎだなあ…(追記))。

ラブライブのライブについて考えると胃が痛いという話。(追記あり)(さらに追記)

これは私信です。酔ってます。うだうだとした自分語りです、あと、ラブライブが純粋に好きな方を結果的にdisってしまっているかもしれないので、注意してください。ここ数か月で関わり合いを持ったすてきなラブライブファンのみなさんとこれで縁が切れてしまったりしたら悲しくて悲しいです。

さて、ラブライブのライブが来年の冬ありますね。5thです。ぼくは、控えめに1枚買って外れて、あとは友人との話し合いで行けるかどうか、友人たちもぼくには行ってほしいと言ってくれているので、もしかしたら行けるのかもしれません。

ただですね、ラブライブのライブに関しては本当に、なんというか、考える度に胃が痛くなるような思いがありまして、これは単純にぼく個人の問題なのですけれども、このもやもやを吐き出さないと物理的に吐いてしまいそうな思いがありまして、ここにぶちまけたいと思います。


あのですね、ぼく、μ'sが好きなんですよ。すっごく好きなんです。6本のPVやアニメ内のPVを見ていて、いつも、ああ、なんてすてきなものが、なんてすてきなものがあるんだろうなあって思うんです。
ぼくはたぶん、アイドルというものが好きなんですけれども、ハロプロやAKBにはハマれなかった。唯一、広末涼子という例外はいたんですけれども、それでもなんとなく無理だったんですね。実際生身の10代とかもいるような若い女の子に、自分の思いやら何やらを仮託して、声を上げることが暴力的に思えて仕方がなかった。いや、もちろんそれはお金を払うビジネスなんですけれども、それでもなんだか嫌だったんですね。
ラブライブを最初1話だけ見たんですけど、まあ、アニメとして合わない。どうにも演出が過剰で、あまりにも脚本が透けて見えるようできつかった。一人の、それ相応の人生を歩んできた人間にはどうにも見えなかった。これは今も変わっていない感想なんですけれども、ただ、それはそうとしても、『ススメ→トゥモロウ』がよかった。OPが、『僕らは今のなかで』がよかった。この二つの曲とPV(?)だけは心に残って仕方がなかったんですね。
より具体的に言えば、『ススメ→トゥモロウ』の「だって変わんない世界じゃない」という歌詞を聴いたときに、「ああ、世界って変えられるよな」って思ってしまったんですよ。そんなことまったく普段思わないのに。穂乃果さんの、あのどうしようもない輝きに、圧倒的な説得力を感じた。ぼくにとってやっぱりアイドルって、そういう、歌詞をただ文字で読んだだけじゃあ心まで届かないようなメッセージを、その質量のあるパフォーマンスで届けてくれる存在で。あの穂乃果さん、まあもちろん海未ちゃんやことりちゃんもなんですけれども、彼女はそうだったんですね。
そのあとは、一応10話くらいまで見たけれども9話が圧倒的にだめで(オタクの前で歌ってる9人を想像するとどうにも気持ち悪く感じて未だにアレルギーです)、『ススメ→トゥモロウ』と『僕らは今のなかで』をひたすらyoutubeで見るっていう生活を続けて、ある日ベストを手に入れて、今度はPVを何度も見てました。そんな中ある日、ラブライブ二次創作にハマって百合厨になったりもして。


けっきょく、ぼくはμ'sを「ふつうのアイドル」として見ていたんですよ。先述のアニメラブライブの評価の話ともつながりますけれども、あの「ワザとらしさ」あるいは「ミュージカル的な演出」を根拠に、ぼくはアニメラブライブを「μ's結成秘話的な再現ドキュメンタリードラマ」として解釈していたりします。これは別に主観的な納得の話ですのであれですが。
だからですね、ライブに行くのきついんですよ。だって、SSAで歌って踊るのはμ'sじゃないんですもん。たしかに、声は同じかもしれませんが、ちがうんですよ。穂乃果さんじゃなくて新田さんなんですよ。新田さんはぼくはとてもすばらしい声優さんだと思っていますが、でも、穂乃果さんじゃないんですよ。なんでそれを見に行かなくちゃいけないのか。なんで、μ'sが存在しないことの証明を見に行かなければいかないのか。
ラブライブというコンテンツは、パラレル的だということがよく言われます。設定は一貫してないし、それぞれの媒体にそれぞれのキャラがいる。ぼくはそれを、「オリジナルのμ's」が存在して、それぞれはそのオリジナルのμ'sが出演しているもの、作っているものだと(=そういう設定であると)考えています。アニメは先に言ったように本人出演のドキュメンタリードラマですし、SIDは彼女らが実際に書いた日記、G'sの記事は彼女らが取材を受けた結果であり、PVは彼女らがリリースしたものというわけです。
そう考えていったときに、どう考えても、無理なんですよ。ライブだけは。生身の人間が出ている以上、そういう理屈はこねられないんですよ。彼女らは、その意味でμ'sではない、何か他のユニットでしかないんです。少なくとも、ぼくはぼくを納得させることができない。彼女らが「μ'sとして」μ'sの曲を歌ってる以上、そのこと自体がμ'sの存在を否定する。ぼくはそれに耐えられない。


さらに言えばですね、これは、本当に情けないことなんですが、「声優さんたちはμ'sじゃないから楽しめない」ということが、ライブにネガティブな感情を抱いている理由じゃないのです。むしろ、「μ'sじゃないけど絶対に楽しめる」だろうことこそがぼくの胃を痛くするのです。本当に、恥ずかしい。
というのも、ぼくはサッカーが好きで地元のアルビレックス新潟を、加えて最近プロ野球広島東洋カープを応援しているのですけれども、ああいうスタンドの一体感、みたいなものが、どれだけ人間を楽しませるかということをぼくは知っているし、また、そういうものを大好物な自分も知っているわけです。ぼくはライブというものにおそらく2回しか行ったことはないですが、おそらくライブはもっと楽しいだろうことを確信しています。
実際、行きたいんです。5th、死ぬほど行きたいです。先のような経緯から、2期1話で『ススメ→トゥモロウ』を8人が歌いだしたところでぼくはみっともなく泣きましたし、2期12話の『僕らは今のなかで』でも、予想していたにも関わらず号泣しました。あとは、『どんなときもずっと』のサビでも静かに泣きました。『LONELIEST BABY』を1期12話13話を見た後に聞いたときは、「ああこれは穂乃果さんへのラブソングなんだ」と一瞬で気づいて、さめざめと泣きました。
つまり、行ったら楽しむんですよ。確実に、心動かされるんですよ。感動するんです。きっと体が震えてなすすべもなく泣くんですよ。でもどうですか。それで泣いてどうするんですか。歌ってるのはμ'sじゃないのに。俺が好きだった、好きなはずだったμ'sじゃないのに。俺はμ'sが好きだったわけじゃなくて、大きな規模の会場で、同じものが好きな人とペンライトを一緒に振ればそうじゃない人たちの歌でも泣いてしまうのか。泣いてしまうとしたら、それは何なんだ、何のための涙なんだ。俺は何に感動をしているんだ。俺は、俺は別に、μ'sの歌に感動していたわけじゃなかったのか。


俺はμ'sが好きだったはずなんだ。そう、確信を持って言えるはずなんだ。でも、でも、来年の春、ぼくがどうなっているのかは、なんともわかりません。そういう話でした。つらい。



【追記】
そのあとさらにフォロワさんたちと話しながらうだうだつぶやいたので一応置いておきます。本文に書き忘れた補足ということで。




まあ、けっきょくこういうことなんですよ。百パー無理ですけどね。


【追記2】
ライブイリュージョン!そういうのもあるのか! たしかにこれはすごくよいかもしれないなあ。


【追記3】
もう見てる人もいないと思うんですけど、一応置いておきます。









(※断っておきますが、それでも「行く気はない。魅力を感じない」とつっぱねることができないぼくの弱さの問題だということは間違いないです。)


まあ、ぼくはりんまきとほのまきとほのにこを読めればいいというラブライブ!(散々「!」付け忘れてごめんなさい)オタとして生きていこうと思います。

『アニバタvol.9』に寄稿しました。

標題の通りです。たつざわさんのところに「かんなはなぜ木に登ったのか あるいは、みどりとの関係について」という文章を寄稿しましたので、お知らせいたします。

あの映画においてかんなとはいかなる存在だったのかということを、ぼくなりに丁寧に説き起こしたつもりです。それに伴ってストーリーの解説もだいたいにおいてしています。

かんなの在り方を理解することは、当然みどりの理解につながるでしょうし、『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』の本質的な枠組みの理解の第一歩にもなると思っています。

『たまこラ』論なのに、『とらドラ!』9巻の引用から始まるというアレな文章ですが、もしよろしければぜひ。
(そういえば、『たまこラ』論に関してはまったく満足しているのに、説明のために持ち出してきた『とらドラ!』論のほうに納得がいっていないという転倒ぶりだ…)


アニバタ Vol.9 [特集]けいおん! & たまこラブストーリー | アニメ・マンガ評論刊行会
http://www.hyoron.org/anibata9

誤読と好き嫌いについて。

およそすべての創作物は意図を持って作られ、ある種の思想が込められているものであると思う。
そして、それを享受する人間もまた、ある種の思想を持って生きているはずだ。各々に、こういう物語が見たい、というものがおそらくあって、それに近いものを探し求める。好き・嫌い、ということの正体は、そういうことなのではないかと思っている。好悪ではなく、それの一つ上にある価値がある・ない、または、評価できる・できない、ということについては、ぼくは、よくわからない。どうやって立証するのか、見当もつかない。
話がそれた。作品に込められた思想と、自分の持つ思想。この近さが、つまりは、好きか、嫌いかということだとするならば、まずもって、その作品に込められた思想を知る必要があるだろう。きちんと作品を見て、あるいは読んで、把握する必要がある。だが、しかし、そこの段階でミスをしてしまったとしたら。作者の意図と、外れた読み方をしてしまったとしたら。この作品が何をしたいのか。この作品が描きたかったものは、つまみ上げたかったものは何か。そういうことを、きちんと把握できなかったとしたら。その作品を好きとも、嫌いとも言えなくなるのではあるまいか。
誤読をしちゃあ、文句も言えない。ぼくは、つらいなあ、とぼやかざるをえない。