誤読と好き嫌いについて。

およそすべての創作物は意図を持って作られ、ある種の思想が込められているものであると思う。
そして、それを享受する人間もまた、ある種の思想を持って生きているはずだ。各々に、こういう物語が見たい、というものがおそらくあって、それに近いものを探し求める。好き・嫌い、ということの正体は、そういうことなのではないかと思っている。好悪ではなく、それの一つ上にある価値がある・ない、または、評価できる・できない、ということについては、ぼくは、よくわからない。どうやって立証するのか、見当もつかない。
話がそれた。作品に込められた思想と、自分の持つ思想。この近さが、つまりは、好きか、嫌いかということだとするならば、まずもって、その作品に込められた思想を知る必要があるだろう。きちんと作品を見て、あるいは読んで、把握する必要がある。だが、しかし、そこの段階でミスをしてしまったとしたら。作者の意図と、外れた読み方をしてしまったとしたら。この作品が何をしたいのか。この作品が描きたかったものは、つまみ上げたかったものは何か。そういうことを、きちんと把握できなかったとしたら。その作品を好きとも、嫌いとも言えなくなるのではあるまいか。
誤読をしちゃあ、文句も言えない。ぼくは、つらいなあ、とぼやかざるをえない。