『天気の子』がすごくよかったのでとりあえず感想。

『天気の子』見てきました。結論から言うと本当によかった。途中から涙が止まらなくなってしまって、終わってしばらく呆然としていました。こういう、子どもと社会に関するアニメを見られるとは思ってなかった。15時から友達と酒を飲む予定なので、推敲もなしに書き殴る。もちろんネタバレありです。

あの廃ビル、陽菜さんが、戻ってくるじゃないですか。「気持ち悪い!」って切って捨てたあと。あそこでもうだめで。母親が死んでから、あの子のことをああいうふうに手を取ってくれた人って、いたのかなとか。あの子への、個人的personalな、手が差し伸べられたことってあったのかな、とかそういうことを考えてしまうんですよ。私的な、あるいは親密intimateな、そういった関係性というものが、あの田端の安アパートの姉弟で完結していたんだろうなと思うのは、有り合わせの材料でぱっと食事を作ったとき。そして、直前で緊張して「つまらないものですが!」と他人行儀にテンパる帆高に対して、きちんとオトナの定型文でおどけて返すとき。高須竜児の話をしなくても、その15歳の女の子がなぜそうあるようになったのかなんてわかることですけど、彼女はあの部屋を守るために、子どもなのにオトナでいようとしなければいけなかったし、でもなれるわけなんてないし。その悲哀があのとても小ぎれいな部屋に結実してる。芽を伸ばす豆苗やネギに結実してる。

陽菜さんがハンバーガーを贈って、それのお返しが鉛玉だったことの意味、とか。誰からも何も贈られずに育った少女が、「……誰かが見ているから、って、伝えたいのよ」(竹宮ゆゆことらドラ7!』pp.150)と孤児たちにプレゼントを贈りながらつぶやき傷を晒すわけですけど、雨の新宿でどうしようもなく一人だった少年を見ていた子は、ハンバーガーを贈る。人は贈り物を贈り合うことで人との関係を紡いでいくわけですが、あらゆる人々との関係から疎外された帆高に差し出されたあのハンバーガーはまさに人の基本的な関係の端緒としか言いようがない。そして、まさに同じく新宿で、現実に孤独で向かう少女を、鉛玉で救い出したことの意味、とか。チンピラは鉛玉で追い払えても、彼女の生活は現実はお金(「実弾」)でしか解決できない(ので、彼は起業をする)。ただ、子どもでも男の子は拳銃を扱えるし、女の子はもうセックスができるんだというあの救いのなさのことはやっぱり考える。

帆高が、まぎれもなく子どもであったこと。逆説的に、だからありえたあの3人の終わりが見えている逃避行。子どもだから、陽菜さんが大人に見える。大人に見えるということがどういうことかわからない程度には子どもだったし、須賀さんと夏美さんの関係もわからない。でもだからこそ陽菜さんといられたのだろうし、彼から見た陽菜さんは子どもでいられたということなのかもしれないし。そういうことを考える。

いやね、こんなこと語るのに、竹宮ゆゆことらドラ10!』を引くまでもないことなんですよ。引くまでもないことなんですけど、考える。子どもが、責任を果たそうとする大人から、どうしようもなく逃げることを。逃げた先で、そこで一晩だけありえたその空間、ラブホテルの最上階。須賀さんがくれた無責任な、そして理性的な5万円で泊まるあの一泊28000円の大人のための一室で、子どもが、翌朝には終わらざるを得ない(なにせお金は5万円しかないのだ)逃避行の末得たその瞬間の永遠を願うこと。

パトカーの中でわめく帆高を、「めんどくせえ」と切って捨てるあの若い刑事。あの人いいですよね。断絶を描いている。行政職としての職務(によって代表される社会)と、個人的な事情との断絶という、当たり前を描いている。保護者の不在ゆえに公的publicな文法のみに絡めとられるしかない子どもの、個人的personalな事情を受け止めてあげられるのは、やっぱり、個人的な関係を持っている大人でしかありえないんですよ。だから須賀さんは来たんですけど。そこで、須賀さんが、不合理にも、非理性的にも、したことがね、本当に、なんだろう、あそこで須賀さんが帆高のために、あるいは10何年前の自分の、あるいはそのときの自分のためかもしれませんが、体が動いた、動かさざるを得なかったということはやっぱり愛であって。愛の話としてこの映画の話をするなら、やっぱり須賀さんのことを考えてしまう。あの瞬間、まぎれもなく彼は娘を一度捨てたんですが、しかし、娘を愛するためにこそ、父親であればこそ、彼はああ動くしかなかった。娘の父親をやる資格のために、ああしたんだと思うんですよね。たぶんですけど。

これは書くべきか悩むんですけどね、やっぱり見て、その感想に影響を与えていると思うので書くことにします。朝、京都アニメーションのことを考えてて。俺は、作品を通して亡くなった方々と個人的な関係を、もちろん一方的ですけど、感じていたんですよ。だから、本当に、自分が知っている人が亡くなったような喪失感があるんですよ。みなさんもそうではないですか。うちの会社には忌服休暇があるんですけど、その対象は3親等までです。これが、公的に承認されている、喪失を感じてよいとされる関係性です。でも、そんなこととは関係なく、喪失はあるわけないじゃないですか。あの火災で大切な人たちが亡くなって、仕事なんてしてらんないじゃないですか。でも社会はそんなこと知ったこっちゃないわけですよ。同様に、帆高の事情も、陽菜の事情も凪の事情も、そして須賀さんの事情もそんなこと知ったこっちゃないんですよ。知ったこっちゃないので、警察は追いかけてくるんですけど、その事情をまさに犯罪、暴力を使って須賀さんが、凪が、一時的に押し通す、押し通したその瞬間に非常階段を駆け上る帆高を見てたら本当に涙が止まらなくなってしまって、行け!と思えたりしたんです。これは蛇足だし、大人になってもこんなで恥ずかしいんですけど、うそをつきたくないので書いておきます。

夏美さんと陽菜さんのキャラデザ、特に目がいいです。ツリ目、気の強さを表しつつ、そして時に子どもっぽく笑うのが似合うあの目。18歳ではないんだけど、かといって15歳と言われると胸が苦しい。年齢の話をすると、帆高16歳、そして偽った陽菜の年齢が18歳。逆なら結婚できる年齢だよな、とか。一足早く大人になるには婚姻しかない子どもたちなのに、その年齢には及ばないことの意味、とか。そして新宿には、15歳とわかっててスカウトするあの男に、娘がいることとか。

 あとねー、なんだろ。観鈴ちんのこととか考えちゃうよね。考えなくていいよね。

あっ、そうだ、凪くんを助けるアヤネちゃんとカナちゃん、泣きながら見てたスタッフロールで笑えてしまった。元カノのほうの子、かわいかったですね。本当に。まぎれもなく百合だった。あと、リクスーに着替えて、髪をまとめた夏美さんが、はい、好きです…。

はーーーーとりあえず今日友達とビール飲んで2回目見に行こう。とにかくいい映画でした。ひどく感動した。見てよかったです。