ラブライブ!って何だったんだろうね、とか。

タイトルに!つけたのでもういいでしょう。こっから先はラブライブで通します。ごめんなさい。

ラブライブ、好きになるのにはずいぶん時間がかかったのだけれど、まあ、今の気持ちとしては、ぼくはラブライブが好きだと、ある程度堂々と言えるようになったのかな、と思ったので、こんなエントリを書こうと思いました。堂々と、というか、開き直り、というか、ああ、そうだ、もう降参、認めざるを得ない、そういう表現こそが適切かもしれない。ああ、そうだよ俺はラブライブが好きだ。それはおそらく間違いがないんだ。

でも、しかし、たとえば屈託、そうしたものはやはりあるのだ。そうしたものは、紛れもなくぼくの一部であったし、それどころかぼくそのものであったような気さえしてくる。いくらもう好きだと言えるようになったからって、それをなかったことにはできないし、したくない。後期の谷川史子は若さゆえの過ちとでも言うべき何かを、取り返しがつかないものとして描きつつ、しかし同時に優しい目線で見つめていたりするけれど、そういうマンガが好きなぼくなのだから、昔の「ぼく」のことだって大切にしたいのだ。ごめん、これはあんまり関係がないかも。

何はともあれそういうことだから、ちょっとぼくにとってのラブライブがどういうものだったのか、という話をしたい。これはぼく自身への私信として書くけれども、ぼくと古くから親しくしてくれている人たちや、ラブライブを通じて仲良くなった人たちに読んでほしいな、と淡い気持ちを抱いてもいる。よろしくお願いします。

おそらく、ラブライブのどこがニガテだったのか、という話からしなければならないのだろう。自らの記憶の糸を辿っていくと、やはり、アニメ1期9話に行きついてしまう感がある。秋葉原、というのはオタクであるぼくもよく行くところなのだけれども、そこでライブをするということに、とてつもないアレルギーがあったことを覚えている。これはぼくの自己嫌悪に由来するものだけれども、「オタク」というものの前で歌って踊るμ’sというものを、ぼくはどうしても認めたくなかった。なんでそんなやつらの前で(ぼくらの前で)歌ってしまうのだと、そんなものに支持されることで、彼女らが「輝く」こと、そのことを直視できなかった。手塚治虫を読んで育ったというのに、ごみ溜めから白いゾウが生まれるとは思えないのだ。しかし、これはおそらくぼく特有のアレルギーにすぎない。

ただ、ここからラブライブという作品のある特徴を少し掬い取ることができるのかもしれない。つまり、秋葉原でのライブは何のためのものだったのか、という話であって、ひいてはμ’sとは何のためのものだったのか、という話に他ならない。というのも、廃校を阻止するためにμ’sがあるのであって、それは出発点においてどこまでも手段でしかなかったという事実が厳然とある。もちろん、そういった性質は物語が進むにつれて失われていくわけだけれども、ここで述べたいのはそうしたμ’sの手段性そのものではなく、そうした手段性は、ある特定のスクールアイドルとファンの関係性を前提にしている、ということである。何が言いたいかといえば、スクールアイドルとして成功することが廃校の阻止につながるということは、スクールアイドルというものが相当に多くの人間を動員することができるということを意味する。そして、そうである以上、スクールアイドルとファンの関係は、ある種合理的な性質を持つようになってしまうだろう。μ’sを応援するのは、彼女らのパフォーマンスがすばらしいものであって、支持するに値するからである。合理的な判断の結果として、ファンが存在する。こうした部分において、おそらく、「スクールアイドル」とプロの「アイドル」の間にさほど径庭はない。スクールアイドルの人気は、そのまま貨幣的な価値へと変換され得るように思われる。

なぜこんなことを延々と書くのかといえば、たとえばぼくは『がくえんゆーとぴあ まなびストレート』というアニメの終盤を理解できない人間だったりするからである。まなびたちがいっしょに同じことに取り組んでたくさんお話をして、仲間になる過程までは納得ができるのに(たとえば、みかんと芽生)、その後、まったく縁もゆかりもない学園の生徒たちが、まなびたちに協力し始めることに理解ができない。人間はそう簡単に動かないだろうと思うのである。もちろん、それ自体として圧倒的な魅力(それは、たとえば市場に溢れる娯楽に勝るか伍するクオリティのものである必要がある)をまなびたちが提示できるのなら別であるが。

テンニースをきちんと読んでいないので用いるのがちょっと怖いのだけれども、ぼくは、つまるところ、ラブライブにおけるスクールアイドルや終盤のまなびストレートにおける生徒会は、いわゆるゲマインシャフト的なものではあり得ないのではないのかと思っているのである。ゲマインシャフト的な関係の延長として描くにはやっぱり無理があると思うのだ。ゲゼルシャフト的な、すなわち、「利害に従って打算的に行為する」(山川倫理用語集より)人間が動員されなければそうはならないと考えるしかないのではないか。μ’sのランキング順位を押し上げるのは、まさにそうした人たちであり、それはまたまさにぼくらラブライブのファンであるのだということに疑いはない。あの世界の無名のファンたち(=「みんな」と言って差し支えないのだろうか)は、ぼくらに容れモノとして開かれているのである。

ラブライブの2期11話が、まさにその意味での「ぼくら」を置き去りにしてしまうものだったというのは言うまでもないだろうと思う。真姫ちゃんは泣きながら「μ’sは私たちだけのものにしたい!」「私が嫌なの!」と叫ぶわけだけれども、これはまさにその通りワガママ以外の何物でもない。そもそも、廃校を阻止するという目的によって結成され、多くの人びとの支持や応援をもらいながらラブライブに出場したμ’sは彼女らだけのものではあり得ないのである。すでに「みんな」のものであるのだから、「私たちだけのもの」にはできるはずもない。こうした無責任は許されるはずもなく、きちんと責任を取る必要が出てくる。だからこそ、映画ラブライブは必要だったし、その内容も真っ当なものであったのだ。ぼくは、映画ラブライブは素直で順当な評価を受けるべきであると考えている。ただし、それはぼくが好むところのものではなかった。

とどのつまり、ぼくが好きなのは2期11話なのだ。西木野真姫の「ワガママ」が愛おしくてたまらないし、またそうであるべきだと思うのだ。ぼくらは置き去りにされるべきだし、たくさんのファンがいなくたって、ラブライブに出なくたって、彼女らはあそこで別れを惜しんで子ども丸出しで泣きべそをかけたはずなのだ。アニメけいおんの2期20話で、彼女らを見守ってきた人たち、あるいは、彼女らが関わってきた人たちとのコミュニケーションとしてしか価値を持たないライブの後で、唯たちはどうしようもなく大泣きをするのである。

ぼくがラブライブを好きなのは、彼女らの過ごした時間が、そこで育んだ関係が尊いものだからだ。いろいろなものを抱えた彼女たちが、大切な友達に出会えて一歩を踏み出したり、その踏み出す一歩を大切な友達に見守られたりする。そういう、そういうかけがえのない関係がぼくは好きだし、彼女たちが過ごしてきた青春の時間がどうしようもなく輝いていることに打ちのめされるのだ。

彼女らに、μ’sがあって、そういう仲間がいて、本当によかったねと、そう言いたくってたまらないから、ぼくはもう「ラブライブを嫌い」とは言えない。ぼくはラブライブが好きだ。彼女たちの、これからの人生にどうか幸福がたくさん訪れますようにと、そう願わずにはいられない。あるいは、大人になった彼女たちが仕事から帰る電車の中で、ふとこうした青春の時間を思い出して、くすりとほほ笑むそんな瞬間が、あってくれればいいと、そう思うのである。


P.S.
最後のほうの話、具体的にどういうことが言いたいのかということを前書いたtogetterで補足しておきます。まきりんぱなについてです。

ライブ前後でまきりんぱなについて考えたこと。 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/777647